単気筒への回帰
季節が驚くほどの速さで過ぎ去っていく。
正月が終わって、大して雪も降らずに2月が過ぎて、3月に早めの桜が咲き始めたと思ったら、今月緊急事態宣言が発令された。
職場のショッピングセンターは休業になって、今は他店舗へ出勤している。こんな時は休みたいという気持ちと、こんな時だからこそ仕事ができて嬉しいという気持ちとが混ざり合った、複雑な思いを抱えながら。
先月バイクを買い替えました。
CBはとてもいいバイクだったけど、僕には少し速すぎた。200kgの重量は引っ張り出すのに苦労するし、ちょっと道が傾いてたりすると停めるのにも苦労するし、高回転まで気持ちよく回るエンジンは加速した後で後ろのセダンに赤ランプが点灯してないか、ついバックミラーを覗いて確認してしまう。とは言いつつも、手放すときはとても寂しい気持ちになったのだけど。
サヨナラCB
僕にとってバイクは旅のメタファーとしての乗り物であって欲しいところがあって、テントやら寝袋やらを積んでトコトコ走りたいイメージがある。大して旅とかしてない癖に、それに対する憧れみたいなものは持っている。
知らない土地の空気を感じて、寂れた自販機の前でバイクを停めて缶コーヒーを飲むような。そんな時に感じる一抹の寂しさみたいなものを心のどこかでいつも求めているのような気がする。CBの持つ方向性はそれとは少し違っていた。
買ったのはKawasaki エストレヤ。250cc 空冷単気筒エンジン。ざっくり言うと昔ながらのプリミティブなエンジン構造で、レトロな外観と相まってどこか懐かしい雰囲気を醸している。バイク屋でエンジンをかけさせてもらったとき、『ああ、やっぱり自分にはこういうのが合ってるんだろうな』と思った。
サイドバッグがよく似合う
そういえば最初のバイクも、同じような理由でSUZUKIのGN125という空冷単気筒のレトロテイストなバイクを選んだのだった。そういう意味で原点に戻ろうと思っての選択だった。
2008年式。目立つ部分はピカピカ。
単気筒エンジンのバイクに乗っていると、その鼓動の隙間が心情を反映させるためのスペースになるように感じる。心地よい振動は田舎道をまったりとどこまでも走り続けたくなるような、そんな気分にさせてくれる。
with 桜
人間は無い物ねだりの生き物なとこがあると思っていて、『あのときはあんなに自由だったのにな』みたいなことをたまに考えてしまう。『自由だったあのとき』というのは、それはそれで今ではない葛藤や分からなさみたいなものを抱えながら苦労して生きていたのだけど。
それでもやっぱりどこかで『自由』というものを求めて、その象徴として『バイク』という形で所有しているというのは少なからずあると思うんです。良いとか悪いとか、いまある幸せを感じられていないとかそういうことじゃなくて。男ってそういうとこある生き物じゃないですかね。
あったかくなったら、また少し遠くまで走りにいこう。